2012年4月14日土曜日

退屈な随筆です。………知的フリンのすすめ


 学生たちがスキー合宿に行って休講になったので、ヒマができた。3時間。たまには随筆というものを書いてみよう。英語でヒマをつぶすのを"to kill time"というのを実践する。

 カミュの『異邦人』で独房生活を送るムルソーは「時を殺す術」を身につける。自分が暮らしていた部屋の家具を思い出す。そしてその引き出しの中の一つひとつを開けて点検する。中身をリストアップして、何時間もかけて、一覧表を作る作業に没頭する。このおかげで、刑務所の中で優に百年は生きることができると思うようになってくるのだ…。そんな風に自分の周りを見てみたい。

 随筆はいつも書いているじゃないか、という人がいるだろうが、僕の多くの文章は筆が向くまま気が向くままといった「随筆」には当たらない。『大辞林』の定義だと「見聞したことや心に浮かんだことなどを、気ままに自由な形式で書いた文章。また、その作品。漫筆。随録。随想。エッセー。」ということになる。確かに心に浮かんだことを書いてはいるが、論文調だし、目的地にまっすぐ向かうJRの特急みたいな文章が多い。目的地って僕の場合、最後のオチなのだが…。

 誰でも知っていることだが、英語の"essay"というのはフランス語の"essais"から来ていてこれは"essayer"(試みる)から生まれた言葉だ。モンテーニュが創始者といってもよく、自分の判断を試みるという意味で使われた。当初は古代の賢人の本の読書ノートだったが、自分の言動から世界のいろいろな事象について判断を試みるようになった。"Que sais-je?"はクセジュ文庫にもなったが、「我何をか知るや」という問いかけであった。

 OEDには従って次のような定義になっている。

ある特定の主題、あるいはある主題の一部に関して適度な長さを持った作文。本来は書き終えることの欠如、「不規則で、消化されていない作品」を意味していたが、今では範囲においては限定されているが、文体では多かれ少なかれ念入りに練られた作文のことをいう。

 また、木原茂は『文章表現十二章』(三省堂)の中で「さまざまな事がらに対する自分の判断の試み」であるといい、「日常生活で、体験したこと、心にハッと思ったことをそのまま書いて、読者に喜びや楽しみを与えたり、考えさせたりすることを目的とする」とまとめている。

 でも、ここで書かれていることはフランス語で"causeries"とでもいえばいいような「文芸閑談」に相当するものだ。

 正確にはエッセイとコラムと随筆と雑文とコーズリーとは違うのだが、どう違うか分からないし、そんなことを気にするのは暇な人だと思う。


hoshenは何ですか?

 今は退屈しのぎなので、「退屈」について考えてみたい。というのも「さて、最近、人はなぜ飽きるのか?について、マジメに考えています。文学でも言語学でも、心理学でもなんでもいいですから、"飽きる"ということについて語っている本や専門家など、ご存じでしたら、ご紹介いただければ幸いです。」という質問があったからで、これに真正面から答えてみよう、というのは冗談で、どれだけヒマをつぶせるのかという気持ちで書いてみる。最近はネタ不足でリクエストにお答えしてというのが多いのだ。

 高校生の頃、随筆というジャンルを知った時、随筆家になりたいと思った。身辺雑記を書いて、少し教訓を加えればできると単純に信じていたからだ。小説だとプロットがあって、細部が大切だ。「仕込み」がなければ、誰も共感しない。随筆だと体験をそのまま書ける!

 以来、色々な人の随筆を読んできた。大好きなのは丸谷才一、和田誠、伊丹十三、東海林さだおなどである。そうだ、恩師の名前も忘れないでおこう。千野栄一も大好きだ。ごめん、やっぱり千野栄一先生も好きだ。

 井上ひさしも大好きだ。酒井順子は『黒いマナー』(文藝春秋)で「エッセイとは、自慢話である」という井上ひさしの言葉を読んだとき、恥ずかしさで赤面したという。確かに、日本の随筆は知っていることの自慢(僕の場合ですね)とか、失敗してもこんなに立派になったみたいな逆自慢で終わっている。伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』は「随筆をエッセイにした」といって迎えられたのだが、酒井はどう思うだろう。確かにヨーロッパで贅沢をしていた頃の自慢話なのだが、自慢話も伊丹くらいになると藝になる。

 外国の随筆も色々読んだが、日本人には合わないような気がする。それでも、チャールズ・ラムとかギッシングなどは自分の感性に合うような、そんな気がする。ラムは"I love a fool."(われ愚人を愛す)といった。高飛車にものを言うような文学もあるが、私は馬鹿だという文学があっていい。愚かさを知って初めて人間の崇高さを知ることができるのである。ラムはお姉さんのメアリーが錯乱してお母さんを殺してしまうという事件から自分にもそうした傾向があることを知って、生涯独身だった。泣きながら姉弟で病院に通ったとされる。共作の『シェイクスピア物語』もお姉さんには喜劇を翻案させ、自分は悲劇を担当した。


黙示録とハルマゲドンの手にあり

 ラムは本と名がつけば(日本語で帳簿のようなものも英語では"book"だ)何でも読んだという。いわゆる「ビブリア・ア・ビブリア」(本にあらざる本)------例えば、法廷日記であろうが、人名簿であろうが、法律全集だろうが、読んだという。ネットの時代には気が狂ったろう。

 ラムは"Otium cum dignitate"というラテン語が好きだった。これは「威厳の持てる閑暇」ということで、元はキケロの言葉だ(そうだ)。つまり、ヒマを大切にした。人はヒマをどんな風にすごすかによって全く違った人生を歩ける。テレビしか見ない人はテレビのチャンネルみたいな心になっていくし、小説しか読まない人は小説の外に一歩の出られなくなってしまう。

 ラムは東インド会社の事務をしていてルーティンワークで飽き飽きしていたはずだ。よほどヒマな時にはダジャレを考えて過ごしたともいう。彼の随筆の中にはずいぶんとふざけた「焼き豚論」というのもある。原題は"A Dissertation on Baked Pork"というもので、"Dissertation"というのは博士論文に相当する言葉だ。豚小屋が焼けて、悲しい思いをしている時に、おいしそうな匂いがしてきて、食べたらおいしかったから焼き豚が誕生したと書いている。僕も真似をして、焼き鳥論を書いた。

 そして、僕は思う。ラムのような読書家だって、僕のエッセーは読まないだろうって。だから、「読書家」であろうとなかろうと、こだわることはない。

 そうだ。ヒマだから思い出した。多田道太郎は『ものくさ太郎の空想力』(角川文庫)でこう書いている。

 いったい、Negotium(仕事)とはOtium(閑)の否定形にしか過ぎず、オチウムあってのネゴチウムであって、その逆ではない。ところが神仏のみこころにそぐわぬ人間たちは、フロイトふうにいえば生の中に死を見つける。いや逆に、死の中に生を見つけることを忘れ、後世にやたらと生を欲し、生を求め、働きに働き、オチウムこそ人生の一大事ということを忘れ、後世に何事かを残さずして何の人生ぞやと考えるに至った。しかし考えてみれば、これは死の本能を抑圧したための凄まじいあがきに他ならず、目前の死を回避するため、悪あがきにあがく結果が仕事だ、業績だ、働きだ、ということになる。


最後を貸したときですか?

 アナール学派のアラン・コルバンの『レジャーの誕生』(藤原書店)によれば、18世紀以前において、ヒマであることは、人間を誘惑に誘い込む罪の一つだったという。ところが、19世紀前後に、疲労というものが研究や分析、討論の重大な対象となり、労働者の行動能力の減退を避けるため休息の必要性が認識されるようになった。それまで安息日だった日曜日に加えて土曜日の午後が自由となり、さらに一日8時間労働が主張され、実現されるようになる。

 この傾向は学校教育にも及び、詰め込み教育は病気の土壌である脳の疲労をもたらすとして、授業時間の長さが批判の対象となり、また中学や高校を田園に置くべきだとの主張もなされた。

 しかし、そのように自由な時間が増えてくると、日曜日が「澄んだ空気、酸素の蓄えを求めに行く」ような"正しい休息"をしなければならなくなる。またそのあおりで、18世紀末のパリでは、日曜日に店を開ける店主が少数になっていった(現代も欧米では似たような状況にある)。

 余暇として園芸や日曜大工などが行われるようになる。また、鉄道網などの発展により、レジャーの形態が変わってきたという。ヒマを作ってはいけないようになってきた。

 サモアの酋長であるツイアピが20世紀初めにヨーロッパを訪れて、パパラギ(文明人)を観察した『パパラギ』には次のように書いてある。

 ヨーロッパで、本当にひまのある人はほとんどいない。おそらく、ひとりもいないのじゃないか。だれもが、投げられた石のように人生を走る。ほとんどすべての人が、目を伏せたまま、大きく手を振り、できるだけ早く先頭に立とうとする。もし他の人が止めでもしようなら、彼らは立腹して怒鳴る。「どうしてじゃまをするのだ。おれには時間がない。おまえは自分の世話をやくがいい、自分の時間をむだにしないようにな」早く行けば行くほど人はりっぱであり、ゆっくり行く人は値打ちが低いと、まるで彼らはそう考えているようだ【…】

 私たちは、哀れな、迷えるパパラギを、狂気から救ってやらねばならない。時間を取り戻してやらねばならない。私たちは、パパラギの小さな丸い時間機械を打ち壊し、彼らに教えてやらねばならない、日の出から日の入りまで、ひとりの人間には使いきれないほどたくさんの時間があることを。


 富山も刺激のない、退屈な街である。でも、アメリカのバーバンクよりはいいと思っている。『ブリタニカ』の"Los Angeles"には"Burbank has a low suicide rate, because living in Burbank makes suicide redundant."(バーバンクの自殺率がうんと低いのは、そこに住むこと自体がすでに自殺だからだ)というジョークが紹介されているくらいだからだ。

 "正しい休息"とは何だろう。ヒマのつぶし方は人によって大きく異なる。プレイボーイと学者とは違う。後者が高尚で「威厳の持てる閑暇」ということになるのだが、なあに、知的なプレイボーイに過ぎなかったりする。

 フーコーだのデリダだの新しい理論が出たといって狂喜乱舞するのはOLがブランドで驚喜するのと変わらない。

 そう考えれば、どんなヒマつぶしも価値のあることだ。

 アフリカに行くと、時間の流れがずいぶんと異なることがよく分かる。

 時間についても、土地の人たちはゆったりとした友好関係をたもち、退屈して時間をもてあますとか、ひまつぶしをするとかいうことはまったく考えてもみない。実際、時間がかかればかかるほど、彼らは幸せなのである。たとえば、友人を訪問するあいだ、あるキクユ族に馬の番をたのんだとしよう。すると、彼の顔つきは、その訪問がなるべく長びけばよいと思っていることをあらわに示す。彼はそういうとき、時間をつぶそうとはしない。腰をおろし、しずかに時の流れと共に生きてゆくのを楽しむのだ。

-----アイザック・ディネーセン『アフリカの日々』(晶文社)

 実際にヒマつぶしに随筆を書こうとするとなかなか手ごわい。自然描写が難しいし、その場にあった言葉が出てこない。何よりも人生描写が若い頃にはできない。してもいいのだが、そんな自分が恥ずかしくなってくる。

 最近では図々しくなって、人生論めいたことがある程度書けるようになったが、誉められたりすると消え入りたくなってくる。

 サミュエル・ジョンソンは『英語辞典』の「エッセー」について「知性のずさんなほとばしり。乱れたまとまりのない作品。規則も秩序もない文章」と酷評した。

 実際、機関誌や地方新聞に出てくるエッセーというのは自慢や自己満足のものが多くて、読んでいて気持ち悪くなってくる。



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